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表紙の稲妻がきれい |
そんな思い出深い本の邦訳がついに出版され、この機に実に一〇年ほどの歳月を経てようやく通読することができた。ひとつの本との出会いをきちんと閉じる機会を提供してくれた訳者の方々には、個人的な感謝を捧げたい気持ちである。一読してまずなにより、訳文の読みやすさに訳者陣の努力の跡が忍ばれた。ラカンの難解な概念をめぐる議論にも、さほど抵抗なく入っていけるのは、ひとえにこのよく練り上げられた訳文のおかげであるだろう。また参考文献についても、原書にはなかった『エクリ』フランス語原典への出典が親切に記載されており、読者が発展的な議論へ向かうのを助けてくれる。こうして読んでみると、フィンクの書いていることは実に明快で、今更ながら若い自分の怠慢が苦々しく思われるが、せめてものけじめに、ここにこの邦訳を読了しての若干の所懐についてまとめてみることとしたい。
外、外の外、内
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待望の邦訳! |
本書の構成は、本編四部プラス補遺二編という作りだが、私見では本編をまずは大きく二つに分けることができる。前半では、疎外、分離、幻想の横断と展開する一連のプロセスの中身がつまびらかにされながら、ラカン理論における主体化の問題が論じられる。後半は、各論といったおもむきで、対象、女性的享楽、ディスクールといった、主に六〇年代以降のラカンの重要概念についての解説が試みられる。この書評では、特に前半の議論を取り上げることとしたい。後半のテーマの重要性を無視するというわけではないが、そこでは、当時の先行するラカン受容に対する修正の試みといった文脈のせいか、少しばかりきれいにまとまりすぎているように思われるからだ。一方で、原題ともぴったり一致する内容が展開される前半には、フィンクが注ぐある種のパッションを感じ取ることができるように思われる。つまり、「ラカン的主体」を導入せんとする情熱である。
ごく簡単に、フィンクの示すこの主体化のプロセスを、僕なりに言葉を補いつつ概観したい。出発点は言語という<他者>である。フロイトの発見した無意識をこのように読み解いたことが、ラカンの最大の功績のひとつであることは既によく知られているが、フィンクもまずこの点からとりかかっている(特に補遺二編は、ラカンが数学的意味での「オートマトン」に依拠しながら証明を試みたこの言語的<他者>の自律性についての、フィンクによる丁寧な追証である)。言語とは、主体が操るコミュニケーションの道具ではなく、その「外部」で自律的に展開するものである。さらに主体は、そもそもこうした言語のうちに間借りすることでしか、「現実存在するexist」チャンスを見出さない。「疎外」とは、このようにして主体が言語の象徴的秩序に参入することであるが、これがそう呼ばれるのは、この参入が決して、主体の存在の次元にあったはずのものを全て持ち込むことを許さないからだ。それゆえ、主体が言語において意味として示されると同時に、そこには「存在欠如」が潜在的に示唆されることとなろう。
こうして、今や内部となった言語世界の「外」に「存在欠如」が措定されるようになるわけだが、次なる問題は、この置いてけぼりにした「新たな外」へ、いかにしてアクセスするか、である。フィンクはここで、この<他者>もまた言語的に分裂した、不完全な存在であることを我々に思い出させる。<他者>は主体について全てを知り、完璧に説明を与えることのできるような者なのではない。<他者>は主体について誤認し、取り違え、無視さえするものなのだが、まさにその可能性に、つまり今度は<他者>のほうの欠陥のうちに、主体は自らの「存在欠如」を重ね合わせるよう試みることができるようになる(「主体は、自分の存在欠如を、〈他者〉において欠けている場所に住まわせていた」、八六頁)。この欠如の重ね合わせを示すのが、欲望の機能である。とはいえそれは、その対象を特定された欲望ではなく、むしろ、不在のものをほのめかし、謎を提示する機能としての欲望である。まさに「外がある」ということを示すことによって、主体と〈他者〉の窒息的な関係を切り開き、両者の間に対話的=弁証法的関係を構築するものである。「分離」とは、そうした欲望の機能によって可能となる、主体‐〈他者〉関係の再構成のプロセスであるとまとめられよう。そこでは主体は、対象の形のもとに存在欠如の埋め草を手に入れ、この媒介を通じて〈他者〉の欲望を自らに関連付けるようになる。
ところが、こうして構成された関係は、最初の欠如に対し蓋を設けたにすぎず、主体と対象をさし向かいあわせる「幻想」を固定するにすぎない。だとすれば、ここで疎外は二重化されているだけだとすら言えるだろう。精神分析の実践はこの点についての介入となる。すなわちここで「幻想の横断」という新たな過程が開始されることとなるのである。「分析において何が起こっているのか」という問いに根本から関わるこの過程について、フィンクはいくつか取り掛かりの点を示唆してはいるものの、その経過全体を明瞭に論じきることには必ずしも成功してはいないように思われる。ただしその中心となる着想を彼がどのように捉えているかは明白である。「トラウマ的原因を主体化する」ことだ(九七頁)。つまり最初の疎外を通じて「外の外」へと逃れさってしまったものを、今度こそ、主体の中心において引き受けなおすことである。フィンクにおいては、精神分析とは、このようにして二重化された疎外を克服するプロセスである、と理解できるだろう。
外から外の外へ、そうして再び内へ。こうしたプロットに即して理解されるラカン的主体の特異性は、フィンクがあるところで言及するような「フロイト的主体」との差異を踏まえることで、よりいっそう理解しやすくなるだろう。フロイトが無意識を発見し、その自律性を発見したとしても、もしそれを、例えばジキル博士にとってのハイド氏のような、自分とは別のところで考える何かの実体のように考えてしまうとするならば、それは単に、ひとつの「外」を発見し、それを外在化という意味で超越化してしまっているに過ぎない(実際は、無意識をハイド氏のように考えたのはフロイトと同時代の医者や心理学者たち、例えばジャネのようなひとびとであって、フロイトの無意識概念はもっと複雑であると考えられるが)。これに対して、ラカン的主体とは、まさしくこの「外」たる無意識の展開そのものがひとつの限界に突き当たること、〈他者〉の欠如という穴がそこにうがたれていること、その穴こそがひとつの突破口であるということ――このような事実に引っかかっている主体である。いわばこうして、フロイト的主体の場である無意識を、(「クロスキャップ」や「メビウスの帯」のトポロジーによって可能となる)ある種の弁証法的プロセスを通じて事態の中心に持ちきたらすことにこそ、ラカン的主体の意義がある、と考えていいだろう。こうしてフィンクは、フロイトの有名な句、「それがあったところへ、私が生成することとなるWo Es war, soll Ich werden」が、ラカンの思想のうちで厳密に再構築されていることを我々の前に示すのである。