2012年3月24日土曜日

精神分析の「原因」

精神分析とは何だろうか?
僕が「精神分析」を研究の対象として選んでいるのは、この問いに答えたいからだ。そういえば、はじめ(十代の頃の)僕は、精神分析のことを、ひとの心の仕組みを解く学問か何かだと思っていた。しかしどうやらことはそんなに単純じゃないということが分かってきた。

精神分析とは何かという問いの答えは、ある人にとって「心理療法だ」ということになるだろう。精神分析は確かに、フロイトが始めた心理療法の一技法だった。「臨床実践にこそ、精神分析の本義がある」というのは、精神分析を応用した哲学や社会学や現代思想の、どこか浮ついた流行に対して、地に足のついた価値を再び与えてくれそうで、僕らを安心させる。ところが僕は、やはりこのシンプルな還元にすっかり納得してはいない。

実際、「心理療法としての精神分析」は、何故あれほどに多様化してしまうのだろうか?正統派だけ見ても自己心理学やら対象関係論やら。あるいはラカニアンやら。クライニアンやら。あるいはさらにそこにアドラー派やユング派を含めることすらできる場合もあろう。歴史を見るならば、そこには、「精神分析」という名によってかろうじてまとめられている、心理療法の理論・実践の分裂的かつ拡散的運動があるのみだ。ヨーロッパで、アメリカで、そして世界中で。しかし、この歴史的=地理的変遷を貫いて、それぞれを差し止めつつ、まとめている「精神分析」という名は、一体、何のことか?

フロイトのことだろうか?フロイトが一体何をしたというのか?フロイトが19世紀の終わりに、自分の抑うつ気分と戦うために行った自己分析のことなのか?あるいはフロイトがそこで発見した、ひとつの幻想-後にエディプスコンプレクスと呼ばれるひとつの幻想が問題なのだろうか?少なくとも、何かひとつの、精神分析の「原因」が、そこに措定されなくてはならない。きっと何かが起きたのだ。フロイトという人物のそばで。フロイトが自らを介して行った実験のなかのどこかで。それとともにひとつの言説の歴史=地理的変遷の運動が駆動し始めたような、“出来事”が起きたのだ。

しかし、この原因の出来事には、本来的に神話的な位置が与えられねばならないだろう。これは、いわゆる神話的創始者フロイトの“脱神話化”が進めば進むだけ、なおさらそうだ。フロイトの行った事柄は、どれも19世紀以来の思想史、科学史、政治史の文脈から切り離されて考えることはできない。人間フロイトがひとりで全てを開始したのではないことは明らかで、だからこそ、遡ろうとすれば、「精神分析的なもの」を求めて、メスメルにでも、ソクラテスにでも、キリスト教的告解の伝統にでも、遡ることはできる。そうした歴史からどこか切り離されて、唐突に、精神分析の原因=出来事は、やってきたのでなくてはならない。その非意味的、非歴史的な位置に、歴史的運動体としての精神分析は、その言説全体の使命の根拠を見取るのでなくてはならないだろう。

一方、この原因=出来事は、人間的、歴史的な意味をまとわずには僕らには気づかれない。精神分析はまさにそこで、「心理療法」の衣をまとう。社会的に、歴史的に、地理的に限定されたその形式を獲得するのだ。けれども、それは、出来事の生身を覆い隠すということでは?原因を誤解で塗りつぶすことでは?つまり、「心理療法としての精神分析」とは〈精神分析〉のフェティッシュ化では?このような疑念から、僕らは精神分析の批判を常に続けなくてはならないだろう。そして、出来事にふさわしい衣を与えること、あるいはむしろ、出来事の裸体を僕らの目に見えるようにする努力へと向かわされる。ところでジャック・ラカンが「純粋精神分析」と呼んだものを、そのような努力と解してもよいだろうか?




それにしても、このような「原因」を探求したいと考えていること自体は、何なのだろう。精神分析を研究の対象としていても、僕自身は臨床家ではないし、かといって、精神分析理論を哲学の言葉で明快にすることも僕にとって第一次的に重要なことではない。問題は、精神分析の実践と言葉の中に残っているこの「原因」のこだまに耳を澄ませ、その原因が別様に姿をとって現れる様を幻視することのように思える。「心理療法」と「思想」の「あいだ」の、未だ名の無い場で、そのようにすることであると。

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