2012年12月22日土曜日

ブログの更新4

すっかり放置する癖がついてしまったが、年末ということもあるので、今年の後半に行った発表および出版された翻訳について、業績のページを更新した。

発表は今年の日本精神医学史学会で行ったものだが、ご縁に恵まれて(?)ひとつの学会で二度の発表を行うことになってしまった。

ひとつは、今年の前半に取り組んでいた第一次世界大戦下の精神医学に関するものの一部で、主な関心は、精神分析運動の重要な転回点としての戦争の影響という点にあったのだが、実際はもっぱら大戦時ドイツでの戦争神経症に関する議論を紹介することとなった。
そもそも戦争をはさんで精神分析の何が変わったのか?少なくともその社会的位置づけが大きく変わったと言えそうだ。戦前、精神分析は、「医学」と「病院」に守られた精神医学と、当時は胡散臭げに思われていた精神療法との間で、固有の陣地を切り開くことを余儀なくされていた。この努力の一端はかたや、精神医学からのボイコットに対する抵抗として、かたや巷に現れ始めた野良精神分析Wilde Psychoanalysisへの対策として、精神分析にひとつの制度化の道を歩ませ始め、そうして1910年に国際精神分析協会が設立されたわけだが、そうするとすぐさま内部から離反する者が続出し、決して先行きは明るいと言えないままに時代は戦争へと突入していく。ところが戦後になるとすぐさま精神分析は、独自の診療所をベルリン、ウィーン、そしてロンドンに構えることとなり、「精神分析療法」を社会的に開かれた形で実践していくことになる。こうしたある種の精神分析運動の地場確立の背景を理解するために、戦争神経症という課題を通じて戦争中に「精神療法」それ自体の地位向上が生じたことを押さえておく必要があろう、というわけであった。
細かい話はまたきちんとまとめていかなければならないが、ともかくここでは、この関心が基本的には、精神分析の思想史的読解と無関係というわけではないということも書いておきたい。というのも、問題は、精神分析運動の栄えある進歩の歴史ではないからだ。むしろ、ここで(そしていつ、どこにおいても)問題なのは、フロイトの中に生じた「精神分析」という着想が、歴史的地理的条件に応じて形をとる際のひとつの仕方である。この点についてはっきりと述べるのはまた手間がかかることかもしれない。だが例えば、日本における精神分析というものを考える際にも、結局必要な作業であろうと感じる。
さらにもうひとつ付け加えておけば、戦後の「精神分析療法」としての制度化には、どこかでフロイト自身の「精神分析家の欲望」とすれ違っていく側面もあったであろうと見ている。戦前のフロイトの創造的快活さが、戦後のフロイトのある種のペシミスムによってとって代わられてはいないか。この点について思想史的課題として引き継いでいく必要があるだろう。

同学会で行ったもうひとつの発表は、ジャネをめぐるシンポジウムのために用意した発表であった。フロイトとならび力動精神医学の祖として評されるジャネであるが、彼の構築した理論体系は、はっきり言ってフロイトと似ても似つかない。かろうじて出発点――ヒステリーの“心的トラウマ”――が同じなだけだ。この出発点から、フロイトは症状や錯誤の表面の上に常に作動している「原因」の問題を立て歴史の作動様式を追及したが、ジャネはむしろトラウマをトラウマたらしめる体質あるいは病的前提条件のほうに関心を注いでいった。発表では、こうしたジャネの方向性の鍵として「貧窮」という考えに着目したのだが、この語の採用には、19世紀フランス知識人の社会学的関心、もう少し言うと社会改良主義的関心が反映されているように見える。こうした着想から、ジャネの言う「精神療法」の射程を、「医学的問題」を「社会学的問題」として開きなおすものとして捉えられないか検討するというのが、発表の趣旨であった。
今回改めてジャネを読み直したことによって、ジャネの印象について改めて確認できた点と、新たに気づかされた点とがある。常々言われるフランス的科学主義者、啓蒙主義者というのはやはりそうで、さらに極端に言えば、彼は「無意識」のことにはそれほど関心を持っていなかった、あるいは、むしろ「無意識」という領野を消していくために仕事を行った、というような気さえする。一方でそうした背景にあるのが、貧窮の病理学者あるいは抑うつの哲学者としてのジャネであろう。彼の進歩主義的理論体系は、疲弊、抑うつという病を封印しようとして築き上げられた金字塔のように見えてくる。

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