2014年5月1日木曜日

近況――「頭がおかしい」ということについて

一回それっきりの講演などで話す際、誤解や異論など、その場で議論できればそれに越したことはないのだが、後からアンケートなどで伝えられたものについては、返答のしようがなくてもやもやすることがある。というわけで、このブログに書いて直接にどうなると言うわけでもないが、ネットの海にでも乗せておけば、どっかに流れ着いて、どうにかなることもありうるかもしれないという曖昧な見込みのもとに、もやもやを少し整理してみることにしよう。

最近、「精神保健福祉」という切り口から研究をはじめようとしていたところ、先日、機会をいただいて、ひとまえでその大枠について話すことがあった。およその話というのはこんな感じ。

1.精神医療は今日、かつての「排除/監禁」実践を克服する方向で動いていること=「地域医療」/「包摂的ケア」の問題への移行=「精神保健福祉」

2.「排除」の克服をより推し進める必要がある一方で、この新たな段階としての「包摂」のなかの「居心地悪さ」に敏感であるべきではないか(「正常化」への圧力、「正常‐異常」の階層化、労働力としての回収など…)

3.精神分析を「居心地悪さ」への抵抗の思想として読めないか(特にフロイト、ラカン)

今後の研究としては、2について、いくつかの論点から丁寧に歴史や現状を整理すること、また3について、それぞれの思想読解をこの筋に即して深めること、ということになっていく。

さて本題。このような話のなかで、問題の中心にあるものを、どう呼ぶか、ということは、なかなか難しい。「狂気」か、「精神疾患」か、「精神障害」か、など。私は自分の話をするなかで「頭がおかしい」という表現を使ってしまい、後のアンケートでこの点についてひとりの聴衆から、「狂気を抱くひとたちを異常者扱いしていて、どうかと思う」との指摘をうけた。まず反省しておけば、ふつう、今日もいまだ差別的表現として受け取られるところのこうした表現を、前提なしに口に出したのは、配慮のないことであった。特に、言葉の問題の背後には、その当事者として関わるひとびとの現実の生活がある、ということも考え合わせれば、いくらでも丁寧に扱わなければならない。このことはもう一度、肝に銘じておきたい。

他方で、改めて、問題の中心にあるものをどう呼ぶのか、ということは考えねばならない課題だ。「狂気」、「頭がおかしい」、「気違い」、「気狂い」、「異常者」――こうした表現が、今、日本で差別的表現として自主規制の対象となっているとすれば、それは、これらの言葉が現行の社会的規範のなかで、つまり「正常」で「頭がおかしくない」ことをよしとする社会のなかで、まさしく「排除」の口実として使われてきたからであろう。しかしこの状況は、「精神疾患」や「精神障害」と呼び変えることで根本的に変化したか、というとそうとも見えない。「精神病患者」という言葉に、今なおまとわりつくのは、この「包摂」社会に移行してなお(完全な「排除」でなければ)周縁に追いやろうとする圧力ではないのか。少なくとも、そこを問題化する必要はあるだろう。

…あるいは「居心地悪さ」は、ひょっとしたら、こうした言葉の問題からも来ているかもしれない。敬して遠ざける、ではないが、洗練された用語を使うことを選び、そうすることで専門家に問題を丸投げして安心してしまうことは、「狂気」と呼ばれる現象のうちで起きていることをわたしたちの課題として捉えるのをあきらめることであるようにも思える。

発表のなかで提起したひとつの問いかけを、もういちど、ここでも繰り返してみたい――「狂気を正常化しようとするのではなく、狂気のとなりにいながら、どのように社会を作っていくことができるか」。ここで「狂気」として言わんとするのは、他人のことであると同時に自らのことでもある。そして「となりにいること」として言わんとするのは、単に、「頭のおかしい」他人(必ずしも精神障害者と呼ばれるとは限らない)とどうつきあっていくか、という話に限らず、もっと根本的に言えば、「自分が頭がおかしい」という潜在性に寄り添っていること、という話でもある。これはもちろん耐え難いことであろう。だから全身全霊で直面しなければならないとまでは言わないし、キツイときには逃げてもよいとは思うのである。しかし、見ないふりをしないこと。さらには、「正常」の圧力で押しつぶしてしまわないこと。このことを、専門家の問題としてよりもむしろ、わたしたち(いわゆる当事者もそうでないひとも含め)の課題として提示したいのである。

それが決して簡単な課題とは思わない。ただ、わたしたちのあいだでともに考えてみることから始めることはできる。それゆえ指摘をくれた人には、もし次に会えるとしたら、こういうふうに話を始めてみたい。「わたしたち自身、ひとりひとり、それなりの仕方で「異常者」であると考えるところから出発して、わたしたちが集まって生きるための仕方を考えてみることができないだろうか」。

まだ言葉足らずで曖昧なところはあるが、さしあたり、まとめとして。

…しかし、最後にもうちょっとだけ、自分語りを――精神分析との付き合いについて思い返してみれば、きっかけこそよくある実存的な問いであったろうが、しかし、これほどに深くのめりこむようになったのは、それが「狂っていること」、「非合理であること」、あるいは「異常であること」のうちに、ある種の肯定性を見出す思想であるように思われたからであった。もちろん、さまざまな側面をもつこの巨大な運動体を見ていけば、実際のところ必ずしもそのように断定できたものではない、ということもわかる。だが、いまでも私の精神分析研究の賭金のひとつは、あいかわらず、その点にあるように思われる。

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