2014年12月30日火曜日

近況:今年の仕事紹介(2)――あるいはマルキドサドのおもいで

今年一年を振り返るということもなかなかままならず、ぎりぎりまでやっています。そういえば年賀状もこれから書かなきゃ。今年の仕事紹介の第二段を、と思っていたのですが、形になるのはどれも来年に入ってからになりそうです。なので本当はもうこの投稿をあげる必要もなかったのですが、ひとつだけ今年のうちにまとめておきたいものが。

今年は、サド没後200周年でした。あまり意識していたわけでもないのですが、ちょうど今年書いた論文(「精神分析実践とマゾヒズム」)では、ラカンの「カントアヴェクサド」の読解を行なっており、それにちなんでサドを久々に読み返すなどしていました。この拙論文は、どちらかと言えば、ラカンのサドへのアプローチを横切って、マゾヒズムのほうへ抜けるという話で、サドよりもマゾヒズムをひいきにしているつくりなのですが、一方で、はじめてのサド読書から自分が得たものはやはり大きかったのだ、ということを、久々にしみじみ思い出したりもしていました(ここから回想)。

サドを初めて読んだのは18か、19の頃だったはず。澁澤訳の文庫版、『悪徳の栄え』でした。これを「一気に」読んだのでしたが、「一気に」というのは文字通り、いっときも休まず、寝る間も食べる間もなく読んだのでした。没頭したというよりは、ある種、「実験」的に。というのも、サドの書き物は、ご存知のとおり、「続きが気になる」といった類のわくわくはあまりないからで、当時は、ほとんど苦行に挑むかのように、そうした読書がしたかったのだ、ということを思い出します。

「苦行」のように、というのは、おそらく「サドを読む」ということが、なにやら「義務」か「必然」のように感じられていたから、ということでもあったはずです。思うに、こうした義務を思春期のうちに感じ取るひとは少なくないんじゃないでしょうかね。つまり若者のいくらかは、既にこんな風な命題を立てて、知らずのうちにサドとカントの結びつきを哲学者たちよりも先取りすることができる。「世界は汚く、醜く、グロテスクである。だからどんなことでも起こりうるこの世界を前に、心を動かさないように、鍛えていなければならない」と。このような義務感から、サド的な世界に入るひとは少なくないのではないでしょうか。

しかし「鍛えていなければならない」とは曖昧な言い方です。「あらゆることを想像して」、「あらゆることを見聞きして」くらいであれば穏便ですが、実はその先もまだある。「あらゆることに手をそめて」という鍛錬のことで、もちろんそこには危うさが孕んでいます。さて、何がその境界を越えさせるか、ということに関しては、僕は今でもまだとても曖昧なことしか言えませんが、しかし、この境界のうえには、やはり恐るべき揺らぎがあり、そのことがサドにおける魅力にも関わっているように思うのです。実際、サドを読むことの不安は、文字と想像力が許す希望とも裏腹のものでしょう。少なくとも僕はサドを読んだ後で、やましさと不安を同時にいだきながらも、次のような命題を信じる気持ちになったのでした。 「言葉と想像力をつうじて描写できるあらゆることは、いつの日か実現しうることである」。思考実験あるいは実験文学とは、そうした意味で、ある組み合わせの実現可能性の領域を取り出してきて いるのに過ぎない。それはどこかで起こりうることである、と。

さらにこのことを信じようとすれば、まさしく組み合わせのひとつの可能性としての自己自身を、「実現」したものとして、と同時に、文字的なものとして、考えるよう導かれるはずです。例えば、やはり僕がサドを読むようになった理由のひとつには、90年代末にあって、若者の凶悪犯罪として世間を騒がせた物事と、自分自身とのつながりを、ひしひしと考えていたからでもあるのは確かです。そんなことひしひしと考えていれば今なら中二病と呼ばれるのかもしれませんが、しかし中二病と呼ばれているものの多くは、しばしば世界に向き合うためのきわめて真面目な態度であることがあります。「なぜ彼はこうなったのか」、そして「なぜ僕は(かろうじて?)そうならずに済んでいるのか」。もし彼を今そうあるようにし、僕をそうあるようにしているものが、ありとあらゆる小さな出来事の連鎖であるのなら、そして同時にそうした出来事を通じてやはり結合したり離れたりする物質の組み合わせであるとするのなら、彼と僕の差異などというものは紙一重でしかないではないか。「歴史」(個人的かつ系譜的)で囲い込むことでかろうじて保たれるような差異でしかないではないか。

では、そのような「歴史」を外してしまうならどうなるか。サドを読み、記号のように何度も何度も殺される死者たちを思い浮かべているあいだに、さらに思弁の翼は広がっていきます。全宇宙の歴史が、そうした出来事と物質の組み合わせの総体であるとして、もしそれを永遠の記号の宇宙として眺めることができるなら、時間の向きも、空間の距離もいまやたいした問題ではない。進化も退化もありはしない。こうするなら、個々人のあいだの差異などもほとんどない。僕がいまたまたまこのようであるのは、彼がいまたまたまこのようであるのと、同じ資格でもってそうあるのであるから、僕がいつか別の時間・空間において(あるいは永遠的現在において)、「彼」であることは十分、ありうることである。なるほど、これが輪廻転生というものではなかろうか。

――というような結論が、若き日のサド読書修行の成果であったとしたら、なんとも突飛かもしれませんが、しかしおおむね、こういうことが心に刻まれたのだったと思い出されます。考えてみれば、その後の自身の研究の一部は、こうしたサドの印象を、なにかしらのかたちで言葉にしようとしてきたということであったようにすら思われるのです。


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