2015年5月17日日曜日

パラソフィア見聞録2015(2)

(承前)崇仁地区から北にのぼって岡崎へ。つまり全国水平社創立の地であり、大日本帝国の宗教テーマパークである。先日の崇仁パークでは一種の〈歴史的真空〉を経験した、とそういえるかもしれない。明らかに問題は「境界」に関わることであった。崇仁でアジアについて思いを馳せることとは次のようなことだ。一方で大地と結びついたマイノリティの潜勢力の記憶と、他方でジェントリフィケーションの予感とのあいだで、空白と緊張を体験すること。現代の世界が直面しているこの「閾」の緊張は、崇仁で加熱され、そのまま地下の断層を伝って、帝国の遺産たる京都市美術館の建物へと届けられているようだ。

・京都市美術館:休日に家族で出かけるパラソフィア。ご近所というほどではないが、快晴のため自転車で行く。以下、子どもと遊ぶパラソフィアという観点で展覧会を振り返ってみる。
 パラソフィアのチケットはいくつかの展覧会場で共通であり、一度一箇所で購入すれば別のところでも使用できる。実は別の日に既に文化博物館の森ムニーナスを見に行っていたので、この日はチケット購入の列に並ぶことなくそのまま建物へ。部屋に入るためにチケットを取り出そうとしていると、スタッフに別の部屋へと促される。ジャン=リュック・ヴィルムートの作品『little boy cafe』の部屋だ。壁、床、テーブルと一面にチョークによる落書きが重ねられた部屋に、まず大興奮したのは息子で、服をめいいっぱい汚しながら自分も落書きを始めた。悲劇的文脈をある意味で堂々と目の前につきつけているこの作品に、2015年のわたしたちが忘却と無邪気さを書き込むこのありようとは何だろう。〈重た軽さ〉の厚みに言葉を失うようだ。ところでピカドンとは、ある世代までのわたしたちの想像力に、ひとつの極限的モチーフを叩きこんできたように思われる。爆発、閃光、中心部の白熱。影しか残さず人間を蒸発させ空気と化してしまう一瞬。「キレる」という感情イメージが日本の青年たちの主体形成の一要素を成しているのは、ピカドンが現実のものとした「忘我」と関係しているのではと思わないでもない。チョークがもし壁に無限に重ねられれば、その完成したホワイトアウトは七〇年前のヒロシマを再現しうるだろうか、などと考えた。

 さて、ある意味、この最初の作品の解釈にともなって、市美術館の展示の見方にひとつの筋がきまった。戦後七〇年の歴史的緊張だ。この辺、若干の事前情報というのもあったのだが、ヴィルムート作品がそれを裏打ちしたかたちである。実際、美術館の歴史を振り返る展示をはじめ、多くの作品が戦後七〇年を思い出させ、まさしくその時間の厚み、あるいは〈帝国の戦争〉と〈現在〉をつなぎつつ隔てる間隙について考えさせるものであった。
 とはいえ二歳児を連れての鑑賞では、なかなか隅々まで見尽くすということは難しい。特に映像作品に時間をかけたり、フラジャイルな作品に近づくことは困難だ。ただし、それでもパラソフィアは、他の展覧会とくらべて、かなり子どもにフレンドリーな芸術祭だったように思われる。そのことは日本ではいくらか画期的なことだったのではないだろうか。わたしは、この国際芸術祭が街の生活に密着したひとつのお祭りのかたちをとろうとしていたことを、とても好もしく思う。素人くさい意見かもしれないが、散歩ついでにも出かけることのできる芸術祭が、芸術のほうをいっそう生の営みへと近づけるのではないか、というふうに思うのだ。その点、パラソフィアには、ほうぼうで肩肘のはらない気前のよさが感じられ、日本でふだん出かける展覧会よりもずいぶんと過ごしやすかった。
 さて以下では、市美術館の展示で強く印象に残った作品のいくつかを振り返っておく。

・スタン・ダグラス『ルアンダ=キンシャサ』:マイルス・デイヴィスのスタジオセッションを再現したスタン・ダグラスの映像作品というが、たとえキャプションでそう言われたとしても、ふらっと来たばかりのものにはそのコンセプトが分かるわけではない。おそらくここに再現されている時間に、非常に濃密な出来事の線の凝集が認められる、というようなことだろうか。だがあれこれと考える以前に、この作品が強く印象に残ったというのは、きわめてクオリティの高い演奏とその映像化が、なにより体を鷲づかみにしてくるからだ。このグルーヴの前では二歳児もノリノリである。もちろんわたしも。菊地成孔がこの作品の解説をしていたというが、聞き逃してしまったので、そのうちどこかで活字になってくれないものだろうか。

・グシュタヴォ・シュペリジョン『素晴らしき美術史』:笑った。大衆雑誌を飾ってきた写真の数々に落書きを加え、「大芸術史」に書き換える作品。大衆文化と大芸術の距離をかき乱すユーモアであり、社会・政治への辛らつな皮肉でもありながら、別に高尚な笑いが意図されているわけではなく、自然と噴き出してしまうようなすがすがしさがある。

・倉智敬子+高橋悟の裁判所:タイトルは「装飾と犯罪」でよかったでしょうか。いちめん白の空間に、評決マシーンを据えた二階席、被告人席、牢獄様通路が設置されている。市美術館の展示のなかで、唯一、土足禁止の展示であった。広大な空間にはだしで飛び出したうちの二歳児は、テンションあがって雄たけびをあげております。特に彼は、牢獄がお気に入りのようだ。ジャングルジムみたいなもんだと思ったのか。被告人席のそばに置かれた石のせいで、インスタレーション空間全体が石庭のように見えてくる。禅である。

・蔡國強のロボット:一回の大広間の奥では、蔡國強のロボットたちが暴れている。その日は「こどもダヴィンチ」という企画も行なわれており、多くの子どもたちがうろうろしていたが、二歳児は残念ながら対象外。とはいえ彼も数々のロボットに興味津々、ネズミロボットは怖いようであまり近づいて欲しくないようだったが、各所で繰り広げられるロボットサーカスに目を奪われているようだった。ところでロボットというのもやはりユーモアの権化なのである。同じ動きを性懲りもなく繰り返しながら、そのたびに彼らは活き活きとしてくるようではないか。ある種の芸術もまた、そうした性懲りもない反復のなかから、活き活きとしたものをつかみ出してくるような契機を、本質とするのではないか。ジャクソン・ポロックの一回性の芸術は、そのようにして、ユーモラスなロボットによって強化されるのだと思われた。

 以上、もう少し早く書いていれば、興味をもたれたかたは是非足をお運びください、くらいのことも書けたのだが、完全にタイミングを逸してしまった。しかし、パラソフィアがもし戦後七〇年の歴史の緊張を駆動力として開催された、というのが本当なら、その余波は、会が終わってからもまだしばらく残留思念のようにしてわたしたちを動かし、悩ませるかもしれない。

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