2016年11月6日日曜日

池田亮司『Ryoji Ikeda : concert pieces』「formula」

昼間、京都国際演劇祭kyoto experiment、池田亮司の初期作品「formula」を鑑賞。
物語的な媒介なしに知覚をダイレクトに掴みに来る映像と音響。外部の信号が神経回路と直に出会うようで、身体が伸ばされ拡がっていくがごとき心持ちであった。マゾヒスティックな快である。こういうのを、ラカンの言葉で享楽と呼んでもいいのかもしれない(概念の安易な使用は控えたいとはいえ)。死の切断を内に孕む身体をそのまま肯定しつつ、〈他〉なる世界へ向けて拡大させていく契機である。サイバーサイケデリック。
こういう知覚体験は随分長い間してなかったことを思い出した。また、学生時代は、わりとこうした体験に好んで身をさらしていたことも。夜中にテレビの砂嵐を眺めながら、ジョン・ケージだとか、Ovalだとか、そんな感じの音楽を流したりして、ぼーとしていた。トランス的であり、また、ニーチェ=ドゥルーズ的な意味で「忘却」的である。あるいはニーチェ=フロイト的な意味で「惚れ込み」的である。それはやはり健康に良いことだろう。
観劇後は大いにリフレッシュして、覚醒した気分。できれば月に一度くらい、こうして池田亮司作品を観る機会があればなぁと。


追記:この作品が2000年だったので、まさに思い出したのはそのくらいの時代のことであったわけだ。それでついでに思い出したのは、一昔前のインターネットにはやけにビカビカ光って恐怖を振りまく類のブラクラが存在していたなぁということ。今回の公演では、他の作品を見れなかったが、その後の時代を経ての変遷も気になる。

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