大阪国立国際美術館で行われていた展覧会、草間彌生「永遠の永遠の永遠」に、展覧会最終日の日曜に出かけてみると、やはりそのようにしている人は多く、とかくひどい人出であって、人の群れがばらばらと、混み合ったり、ほどけたりしているスキマを、掻い潜りながらの鑑賞であった。
だが、そのこと自体、草間の作品世界とどこか照応しているようでもある。「愛はとこしえ」と題された一連のドローイングは、全てモノクロームながら、点と線の密度、濃度がうねりを作り出し、さながら脈動する血管が血を押し流すかのように、ひとつの流れを作り出していた。この流れには、様々なものが参加している。人の横顔。できそこないの横顔。目。唇。歯。ハンドバック。靴。眼鏡。などなど。様々なスケールを同じ倍率のうちに収めながら、このビジョンは、全ての個体とは「部分」であることを私たちに告げている。人体を構成する部分である器官。集団を構成する部分である人間。消費社会を構成する部分であるモノ。しかし結局は、無限の全体を構成する部分である原子。すべては、このような微粒子である。人間集団も、歴史も、消費社会も、芸術も、大衆文化も貫いて増殖していく生命のプロセスの只中で、まとまったり、ほどけたりしてうねりを生み出す微生物なのだ。
私もまたそのような微生物として、草間の顕微鏡のうちに飛び込んだというのだろうか。目覚めの季節である春の陽気に誘われて。思えば、草間彌生とは、その名前が示すとおりのことを自ら幻視し、また我々にも幻視するよう誘っている作家である。生命がいよいよ生い茂る春ほど、草間の作品にふさわしい季節はあるまい。
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