都市とはどれほど大規模電力消費を前提として設計されてきたのだろうと、照明と空調の行き届いた、大都会の長い地下通路を歩きながら思う。単に、エネルギー産業の発展によって便利で快適な生活が可能になった、というのではもはやない。電力を失えば、暗く湿ったコンクリートの洞窟の中でしか生きていけないという以上、私たちの生活そのもののうちに、エネルギー産業の発展は、必要条件として如何ともしがたく組み込まれている。私たちの生活の設計そのものが、エネルギー産業を発展させるという要請を内に含んでいる。あたかも、私たちの生が、原発を稼動するという目的のために、都市の人工空間のうちに囲い込まれているかのよう。残酷な本末転倒。
まったくその点に、電力会社や政治家が振りかざす脅迫の根拠があることは明白だ。しかし一体、いつから私たちは、自分たちの生を人質に差し出していたのか。どんな歪んだロジックのもとで、原発事故の種々の長期的・潜在的リスクと、失業や自殺という多かれ少なかれ社会的に作り上げられる犠牲とが、秤に掛けられるというようなことがまかり通るようになるのか。
一方、この本末転倒の中で私たちに与えられてきたものが果たして正当なものであったかどうか、都会の風景と対峙しつつ、少なくとも一度、思い返してみる必要はないだろうか。
本当に、このような生活を望んだのだったっけか。
私たちに与えられてきたのは、ささやかな夢想ばかりではなかったか。
より安全な代替エネルギーを見出したところで、こうした問いを考えるために進むべき方角をもともに見つけていないのであれば、今日の状況から私たちが導く教訓は、どれほどたいしたものであると言えるのか。
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