子育てをしていると色々と思い出す。うちの子は食べ物の好き嫌いがあるが、それがいつの間にか克服されていたり、あるいは逆に新たに生じたりしている。私も小さい頃は色々と好き嫌いがあった。野菜は何でも食べることができたが、魚を除く魚介類が一切ダメだった。しかしそんなこんなも長く生きる間に克服されていった。
好き-嫌い。心地よさに関わることであり、これは克服されるだろう、あるいは克服しなければならないというのは、栄養だ何だという口実以前に、一つの倫理に関わることである。直感的な心地よさ、つまり何となしに好き、あるいは嫌い、ということを判断の根拠にしてはならない、そういう道徳の問題だ。この道徳は、さらに広い世間知一般、とりわけ人間の好悪に関する世間知に広がっているように思われる。馬には乗ってみよ、というやつである。
ところで、食べ物の話に戻すと、現代社会において、こうした道徳を一律に主張するのは危険であることが言われている。アレルギーの問題があるからだ。快と不快の感性的な水準とは別のところで、致死的な拒絶反応が生じる場合がある。現在こうしたアレルギーに関する認識は一般化した。そしてそのことは、上に述べた人間の好悪に関する世間知・道徳に、何らかの影響を与えているのではないだろうか。アレルギーのメタファーが、好き嫌いのコントロールにおいて、現代、新たな役割を果たしていないだろうか。感性の超克であるような古典的道徳が、現代においては、生理学的知識によって書き換えられようとしているのではないか。
そうした点に、現代の不寛容やヘイト諸々を支える幻想-知の体制も認められるのかもしれない。人間にとって摂食は、単に唯物論的なプロセスでない。精神分析ならば、はっきりとそこに幻想の支えを認めよう。幻想を快-不快の調節モジュールと見なせば、好き嫌いの克服においては、一種の幻想の新陳代謝が行われていると考えてよい。アレルギーについての知識は、このような幻想の新陳代謝に、何か抑制的な効果を持って作用しているのではないか。幻想と科学知識の関係が、身体-共同体イメージに与えている影響を、批判的に考えて見る必要がある。
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