6月に刊行され、既に二版を重ねる好評をいただいております。
『発達障害の時代とラカン派精神分析--〈開かれ〉としての自閉をめぐって』(晃洋書房)(リンク先はamazon)
2014年から2016年にかけて行った研究会にて、ラカン派精神分析を中心的参照軸にしつつ、臨床、哲学、思想史etcを横断して議論を重ねた成果です。いまなぜ「発達障害」について考えねばならないのか。ラカンの精神分析理論はそこにどのような光をもたらし得るのか。新たな議論のきっかけとなりますれば幸いです。
エッセー
上尾真道ブログ
2017年9月20日水曜日
2017年9月19日火曜日
告知:書評会「真理・享楽・政治 精神分析と政治」(9/23)
今さらですが、これからまたぼちぼちブログを活用していきたいなと思います。
手始めに間近に迫るイベントの告知です。
書評会「真理・享楽・政治ーー 精神分析と政治」
日時:2017年9月23日(土・祝) 14:00〜
場所:ソーシャルキッチン (京都市上京区 鞍馬口)
参加費:1人 1000円
主催:人文書院、岩波書店、DG-Lab(外部連携部局)
***拙著『真理のパトス』/山本圭『不審者のデモクラシー』/スタヴラカキス『ラカニアン・レフト』のそれぞれに、ドゥルーズ、バトラー、ガタリの研究者たちからのコメントがつくという、胸熱イベントです。
予約は以下で受付中とのこと。trident.ppp.2017 〔@〕gmail.com
人文書院のページ
DG-Labのページ
2017年4月20日木曜日
hontoブックツリー「心のケアを問う哲学。精神医療とフランス現代思想」
ネット書店サイトhontoの選書コーナー「ブックツリー」に寄稿いたしました。
https://honto.jp/booktree/detail_00003595.html
「心」を考えるだけでなく、「心のケア」をどう考えるか、そんな本を見繕いました。覗いてみてもらえれば幸いです。
https://honto.jp/booktree/detail_00003595.html
「心」を考えるだけでなく、「心のケア」をどう考えるか、そんな本を見繕いました。覗いてみてもらえれば幸いです。
2017年4月10日月曜日
『ラカン 真理のパトス--一九六〇年代フランス思想と精神分析--』
初の単著となります『ラカン 真理のパトス』が刊行されました(リンク先はamazon)。版元の人文書院のサイトで序文が読めます。
人はどのような経験をくぐって精神分析家となるのか?この問いをめぐって思索と実践に取り組んだ六〇年代のジャック・ラカンについての研究書です。日本では、思想家としてのラカン、臨床理論家としてのラカン、あるいは人生哲学者としてのラカンについては大いに紹介されてきましたが、他方でラカンの精神分析が「実践」として世の中に割り込もうと努めたその側面は、歴史的にも、それほどはっきりとは論じられてこなかったように思います。本書では、当時の精神医療史の文脈を再現した上で、彼の特異な実践の意義について、またラカンのその情熱が時代の思想家(特にアルチュセール、ドゥルーズ)との間に有するズレや共鳴について、明らかにすることを試みました。また、ラカンのストア主義やマゾヒズム論、四言説理論の歴史的評価、環世界論など、これまであまり論じられていなかった主題も扱っています。
刊行以来、なかなか街に出ることができず、ようやく先週末に街の本屋で実物が売られているのを見ることができました。年度末の忙しい最中、実際に買ってお読みいただいている方がいるであろうというのは、今のところ想像に委ねるほかなく、かといってそのなかなか追いつかないことですが、いつかどこかで感想をお聞かせいただければ幸いです。
私もまた執筆後の感想、とりわけ書けなかったこと、もっと書きたかったこと、挫折したことなど、いつかどこかで話せる日があればと。それでは。
人はどのような経験をくぐって精神分析家となるのか?この問いをめぐって思索と実践に取り組んだ六〇年代のジャック・ラカンについての研究書です。日本では、思想家としてのラカン、臨床理論家としてのラカン、あるいは人生哲学者としてのラカンについては大いに紹介されてきましたが、他方でラカンの精神分析が「実践」として世の中に割り込もうと努めたその側面は、歴史的にも、それほどはっきりとは論じられてこなかったように思います。本書では、当時の精神医療史の文脈を再現した上で、彼の特異な実践の意義について、またラカンのその情熱が時代の思想家(特にアルチュセール、ドゥルーズ)との間に有するズレや共鳴について、明らかにすることを試みました。また、ラカンのストア主義やマゾヒズム論、四言説理論の歴史的評価、環世界論など、これまであまり論じられていなかった主題も扱っています。
刊行以来、なかなか街に出ることができず、ようやく先週末に街の本屋で実物が売られているのを見ることができました。年度末の忙しい最中、実際に買ってお読みいただいている方がいるであろうというのは、今のところ想像に委ねるほかなく、かといってそのなかなか追いつかないことですが、いつかどこかで感想をお聞かせいただければ幸いです。
私もまた執筆後の感想、とりわけ書けなかったこと、もっと書きたかったこと、挫折したことなど、いつかどこかで話せる日があればと。それでは。
2016年12月19日月曜日
第五回「精神分析と倫理」研究会
来る2017年2月4日に第五回「精神分析と倫理」研究会を以下の要領で開催する運びとなりました。ラカンの「サントーム」概念を軸に、現代的臨床/思想に斬り込む議論を行いたいと思います。どうぞご予定をご確認いただければ幸いです。
お問い合わせ
ueoueo アットマーク fc.ritsumei.ac.jp
第五回「精神分析と倫理」研究会――現代的精神病理の展望:「サントーム」をめぐって――
日時:2017年2月4日(土)14:00〜18:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 洋々館6階 第3研究会室
主催:科研費(若手B)「現代精神医療倫理におけるラカン派精神分析思想の位置づけと意義に関する研究」(代表:上尾真道)
会場:立命館大学衣笠キャンパス 洋々館6階 第3研究会室
主催:科研費(若手B)「現代精神医療倫理におけるラカン派精神分析思想の位置づけと意義に関する研究」(代表:上尾真道)
共催:立命館大学生存学研究センター/立命館大学人間科学研究所
参加費無料、申し込み不要
参加費無料、申し込み不要
企画趣旨
「精神分析と倫理」研究会は、これまで四回の公開研究会を実施し、現代社会における倫理との関係から精神分析の思想と臨床の可能性について議論してきた。第五回目となる今回は、二〇世紀後半の社会体制の変動に伴う精神病理の変化という問題を、臨床・理論の二つの側面から見る。その際に大きな参照項となるのが、フランスの精神分析家ジャック・ラカンの「サントーム(症状)」概念(1975)だ。晩年のラカンが提出したこの概念は、特に作家ジェイムズ・ジョイスを例に、狂気と創造の関係、またそれに注目するプラグマテイックな臨床を強調するものであった。この概念のプリズムを通じて、現代世界と我々の病理をどのように捉え直すことができるか、議論を深めたい。
導入:「サントーム」概念について
上尾真道(立命館大学衣笠総合研究機構:思想史・精神分析)
研究報告①「近年の精神病のいわゆる軽症化とサントームについて」
菅原誠一(東尾張病院)
質疑応答
研究報告②「歴史から無時間へ:後期ラカン再検討」
信友建志(鹿児島大学准教授:思想史・精神分析)
質疑応答
ueoueo アットマーク fc.ritsumei.ac.jp
2016年11月16日水曜日
好き嫌い
子育てをしていると色々と思い出す。うちの子は食べ物の好き嫌いがあるが、それがいつの間にか克服されていたり、あるいは逆に新たに生じたりしている。私も小さい頃は色々と好き嫌いがあった。野菜は何でも食べることができたが、魚を除く魚介類が一切ダメだった。しかしそんなこんなも長く生きる間に克服されていった。
好き-嫌い。心地よさに関わることであり、これは克服されるだろう、あるいは克服しなければならないというのは、栄養だ何だという口実以前に、一つの倫理に関わることである。直感的な心地よさ、つまり何となしに好き、あるいは嫌い、ということを判断の根拠にしてはならない、そういう道徳の問題だ。この道徳は、さらに広い世間知一般、とりわけ人間の好悪に関する世間知に広がっているように思われる。馬には乗ってみよ、というやつである。
ところで、食べ物の話に戻すと、現代社会において、こうした道徳を一律に主張するのは危険であることが言われている。アレルギーの問題があるからだ。快と不快の感性的な水準とは別のところで、致死的な拒絶反応が生じる場合がある。現在こうしたアレルギーに関する認識は一般化した。そしてそのことは、上に述べた人間の好悪に関する世間知・道徳に、何らかの影響を与えているのではないだろうか。アレルギーのメタファーが、好き嫌いのコントロールにおいて、現代、新たな役割を果たしていないだろうか。感性の超克であるような古典的道徳が、現代においては、生理学的知識によって書き換えられようとしているのではないか。
そうした点に、現代の不寛容やヘイト諸々を支える幻想-知の体制も認められるのかもしれない。人間にとって摂食は、単に唯物論的なプロセスでない。精神分析ならば、はっきりとそこに幻想の支えを認めよう。幻想を快-不快の調節モジュールと見なせば、好き嫌いの克服においては、一種の幻想の新陳代謝が行われていると考えてよい。アレルギーについての知識は、このような幻想の新陳代謝に、何か抑制的な効果を持って作用しているのではないか。幻想と科学知識の関係が、身体-共同体イメージに与えている影響を、批判的に考えて見る必要がある。
好き-嫌い。心地よさに関わることであり、これは克服されるだろう、あるいは克服しなければならないというのは、栄養だ何だという口実以前に、一つの倫理に関わることである。直感的な心地よさ、つまり何となしに好き、あるいは嫌い、ということを判断の根拠にしてはならない、そういう道徳の問題だ。この道徳は、さらに広い世間知一般、とりわけ人間の好悪に関する世間知に広がっているように思われる。馬には乗ってみよ、というやつである。
ところで、食べ物の話に戻すと、現代社会において、こうした道徳を一律に主張するのは危険であることが言われている。アレルギーの問題があるからだ。快と不快の感性的な水準とは別のところで、致死的な拒絶反応が生じる場合がある。現在こうしたアレルギーに関する認識は一般化した。そしてそのことは、上に述べた人間の好悪に関する世間知・道徳に、何らかの影響を与えているのではないだろうか。アレルギーのメタファーが、好き嫌いのコントロールにおいて、現代、新たな役割を果たしていないだろうか。感性の超克であるような古典的道徳が、現代においては、生理学的知識によって書き換えられようとしているのではないか。
そうした点に、現代の不寛容やヘイト諸々を支える幻想-知の体制も認められるのかもしれない。人間にとって摂食は、単に唯物論的なプロセスでない。精神分析ならば、はっきりとそこに幻想の支えを認めよう。幻想を快-不快の調節モジュールと見なせば、好き嫌いの克服においては、一種の幻想の新陳代謝が行われていると考えてよい。アレルギーについての知識は、このような幻想の新陳代謝に、何か抑制的な効果を持って作用しているのではないか。幻想と科学知識の関係が、身体-共同体イメージに与えている影響を、批判的に考えて見る必要がある。
2016年11月8日火曜日
養生
息子がよく風邪を引くからか、病みながら生きる身体を持つことについて時々考える。「すべて」というリミットを必ずしもはっきりと持つわけではない身体。風邪をひきやすい身体。あるいはもっと深刻には免疫不全の身体。困ったほどに〈他〉へ向けて開かれた、「すべてではない」身体。そのような身体に必要なのは、「健康」と「病」の境界をまたぎこす「治癒」の契機ではなく、病へと傾く身体をこまめに立て直す「養生」であろう。あまりにも歓待的な身体が、一貫性ごと崩壊してしまわないように、丁寧に身体の形を押しとどめるような小さな工夫。身体に限らず、心にせよ、あるいは共同体にせよ、それが「すべてではなく」、旺盛に歓待する側にある時は、こうした養生が考えられねばならないだろう。養生の方策は、科学的なヘルスケアと違って、いつもブリコラージュ的だ。エヴィデンスもない。だがそれは何らか機能している。おそらく環境として身体を支えている。生き方を纏う、というようなことであろう。
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