毎回、毎回、「ブログの更新」という自己言及的なタイトルのもとに投稿するのはいかがなものかと思いつつ、今回も性懲りもなく。「ブログの更新」と言いつつやっているのは結局、かかる「業績」が追加されましたよ、という誰にともない宣伝ということになるのでしょうが、しかしむしろ自分自身で自分が何をやっているのか見失わないようにするための総括作業のほうが大事であったりしますね。 確かに書いたもののひとつひとつは、テーマがあちらに飛んだり、こちらに飛んだりしているので、結局何がしたいんだろうと自分にさえ見えにくくなるときがありますが、ゆっくり考えてみると実はいつも似たようなことしか考えていないことに気づきます。
というわけで「研究業績~論文」欄に二点、「研究業績~発表」欄に一点、追加しました。この3点のうち2点はジャック・ラカン絡み、もう1点は20世紀後半以降の精神医療史に関するものです。しかし、ジャック・ラカン絡みの2点も、ただの理論的分節化を目指すというよりは、現在につながる後期近代の歴史的次元のうちに、ジャック・ラカンという精神分析家の(ありえたかもしれない)位置を探ってみたいという関心にそもそもは基づくもので、その点では上記3点ともに、後期近代のプシュケの歴史という同じ主題のうちにあります。
この主題は私にとって最近ますます重要になっていますが、それは何よりも、このご時勢、この世の中にあって私自身がどこから発言するのかという問いと、この主題が不可分となってきているからです。手短に言ってしまえば、私は、自分と「精神分析」との出会いというものの偶然性と必然性について、20世紀後半のありえたかもしれない歴史を通じて考えてみたいのです。時勢を見るに、このようなことに拘り、作業するのは、実はいくぶん時代遅れなのかもしれないとも思いますが、しかしやはり現時点で自分はそのような地点にいるのだと、確認しておきたいと思います。
この確認は、個人的なもので、さらにはいささかドラマティックにすぎるかもしれません。研究活動に関することでドラマティックになるのはやめようと最近考えたばかりのところですが、しかし、やはり最近私に訪れた個人的でドラマティックな切断の思い出のために、これを書き残しておきたいと思います。「出会い」には、いずれ来る「別れ」が含まれていることを思い出しながら。
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