昨年の9月から今年の3月までパリで滞在研究を行って戻ってきて以来、短い間のことだったとはいえ、この経験をいつか自分なりに振り返って総括してみたいと思いつつ、日々の些事にかまけてこのまま放っぽりだしてしまいそうになっていた矢先、エリック・アザンの『パリ大全』("L'invention de Paris")の翻訳が出たというので、それをぱらぱらと読みながら、少しずつパリのことを思い出そうとしている。
パリでの暮らしを思い出そうとするのは、どこか夢を思い出そうとするかのようでもある。
ひょっとしたらパリにいる間から、どこか夢のなかにいるようだと思っていたのだっけか。
『パリ大全』はと言えばけっこうな大著で、ほんの半年滞在したくらいでは登場する地名を追うことすらおぼつかないが、ふと自分の知る通りや広場の名前にでくわすのは、パリで闇雲に歩いて迷子になりながら見知った通りにいきあたったときと同じで、少し慰められ、少し誇らしい気持ちがする。それはそうと、パリの街を歩くのはずいぶんと楽しかった。きっと、石壁、石畳に支えられているあの感じが良いのだろう。その上を通り過ぎる人々の生や、闘いや、詩を、降り落ちた雨のように艶やかに受け止め、沁みこませる。だからパリの街を歩くのは、独りで歩いていてさえ、会話のなかへ入っていくような、デモのなかへ混じるような、舞台を眺めているような、騒がしい経験だった。実際に騒がしかったのも確かだが、たとえ静かだったとしても騒がしかっただろう。アジェの写真のようにそこにひとがいなくとも、パリの街は何かを語るだろう。パリに滞在中、僕はたしかに、この街はそれ自体がひとつのスペクタクルなのだと思ったのだった、街そのものが鳴り響くようで。それは、何世紀ものあいだに街にしみこみ続けてきた歴史の喧騒だったろうか。街角のそれぞれが、いくつもの物語へと分岐していく寓意であるかのようだった。『パリ大全』に戻れば、思想家、文学者、さまざまなひとびとによるスケッチによって時空の厚みを描き出そうとするそのスタイルは、パリという街を描写するための必然でもあるのだろう。
確かにパリは声を湛える街で、僕にとっての対話の相手そのものだったことが思い出される。あるいはより正確には、精神分析を学ぶという名目のもとさまざまな課題を抱えてパリに飛び込んだ僕は、パリという分析家のまえでよく独りごちて歩いていたのだった。それはあまりにも個人的なことなので、それについて語っても決してパリの魅力を伝えることにはならないだろう。しかし一方で、初めて心してパリを歩く人の誰しもが、これに似たことをしながらこの街と向き合うのではないか、とも想像している。この個人的で初歩的な経験を、誰も敢えて語りはしない。けれども、そんな個人的で初歩的でささやかな“パリ”が、世界のひとびとを魅惑するあのパリの裏側にあり、ひょっとしたらあの巨大な街の本当の姿ですらあるかもしれないと想像するのは、どこか愉快でもある。
やがてこの街によく親しんで、この街の中ではっきりと目が開けてくるほどに、この最初の“パリ”は、靄のなかに遠ざかっていくだろう。それはあたかも夢の出来事のようだ。『パリ大全』ほどではないにせよ少しはパリのことが分かるようになるときがきたら、今かろうじて痕跡をとどめるこの“パリ”には、もう近づけない。そのときの慰みにするためにも、この自分なりの、個人的で初歩的な“ひそかなパリ”の記録を、もうちょっと積極的にまとめてみようかなどと、考えている。
0 件のコメント:
コメントを投稿