2013年12月15日日曜日

書評:ブルース・フィンク『後期ラカン入門:ラカン的主体について』(2013)


表紙の稲妻がきれい
個人的な思い出から。原著のThe Lacanian Subject : Between Language and Jouissance, 1995という本については、ちょっとした思い入れがある。大学院に入りラカンについて勉強を開始したときに、初めてネットを使ってアメリカから取り寄せたのがこの本だった。今日びは珍しくもないが、確か二〇〇二年ごろでインターネットによる買い物もまだ根付き始めたばかりだったというのと、僕自身、なにより学問的に右も左もわからないヒヨッコだったというので、この本の購入は自分にとりちょっとした、はじめの一歩、だったというわけだ。今から振り返ると気恥ずかしくもあるが、この本を手にしたときのそこはかとない高揚をかすかに記憶している。ところが、この本に没頭して読みふけったかといえば、正直に告白すると、そんなこともなかった。今にしてこそ、フィンクが書こうとしていることをそのニュアンスも含めある程度は視野に捉えることができるようになったが、当時はいたるところで基本的な知識が欠けていたのだろう、かなりはやばやと通読するのをあきらめてしまった。とはいえ、この本はかなり長いあいだ、書棚のすぐに手の届くところにしまわれていた。表紙の稲妻の美しいイメージを眺めると、何かひらめきを触発するようで、それが気に入っていたのだった。

そんな思い出深い本の邦訳がついに出版され、この機に実に一〇年ほどの歳月を経てようやく通読することができた。ひとつの本との出会いをきちんと閉じる機会を提供してくれた訳者の方々には、個人的な感謝を捧げたい気持ちである。一読してまずなにより、訳文の読みやすさに訳者陣の努力の跡が忍ばれた。ラカンの難解な概念をめぐる議論にも、さほど抵抗なく入っていけるのは、ひとえにこのよく練り上げられた訳文のおかげであるだろう。また参考文献についても、原書にはなかった『エクリ』フランス語原典への出典が親切に記載されており、読者が発展的な議論へ向かうのを助けてくれる。こうして読んでみると、フィンクの書いていることは実に明快で、今更ながら若い自分の怠慢が苦々しく思われるが、せめてものけじめに、ここにこの邦訳を読了しての若干の所懐についてまとめてみることとしたい。

外、外の外、内

待望の邦訳!
本書の内容のまとめについては「訳者解説」でかなり的確かつコンパクトにまとめられているので、大きな話の流れをまず踏まえておきたいという人には、「訳者解説」から入るのも良いだろう。ここでは僕なりに、本書で展開されるフィンクのラカン理論を整理した後で、少しばかり批判的な角度からいくつかのコメントを付してみたい。

本書の構成は、本編四部プラス補遺二編という作りだが、私見では本編をまずは大きく二つに分けることができる。前半では、疎外分離幻想の横断と展開する一連のプロセスの中身がつまびらかにされながら、ラカン理論における主体化の問題が論じられる。後半は、各論といったおもむきで、対象女性的享楽ディスクールといった、主に六〇年代以降のラカンの重要概念についての解説が試みられる。この書評では、特に前半の議論を取り上げることとしたい。後半のテーマの重要性を無視するというわけではないが、そこでは、当時の先行するラカン受容に対する修正の試みといった文脈のせいか、少しばかりきれいにまとまりすぎているように思われるからだ。一方で、原題ともぴったり一致する内容が展開される前半には、フィンクが注ぐある種のパッションを感じ取ることができるように思われる。つまり、「ラカン的主体」を導入せんとする情熱である。

ごく簡単に、フィンクの示すこの主体化のプロセスを、僕なりに言葉を補いつつ概観したい。出発点は言語という<他者>である。フロイトの発見した無意識をこのように読み解いたことが、ラカンの最大の功績のひとつであることは既によく知られているが、フィンクもまずこの点からとりかかっている(特に補遺二編は、ラカンが数学的意味での「オートマトン」に依拠しながら証明を試みたこの言語的<他者>の自律性についての、フィンクによる丁寧な追証である)。言語とは、主体が操るコミュニケーションの道具ではなく、その「外部」で自律的に展開するものである。さらに主体は、そもそもこうした言語のうちに間借りすることでしか、「現実存在するexist」チャンスを見出さない。「疎外」とは、このようにして主体が言語の象徴的秩序に参入することであるが、これがそう呼ばれるのは、この参入が決して、主体の存在の次元にあったはずのものを全て持ち込むことを許さないからだ。それゆえ、主体が言語において意味として示されると同時に、そこには「存在欠如」が潜在的に示唆されることとなろう。

こうして、今や内部となった言語世界の「外」に「存在欠如」が措定されるようになるわけだが、次なる問題は、この置いてけぼりにした「新たな外」へ、いかにしてアクセスするか、である。フィンクはここで、この<他者>もまた言語的に分裂した、不完全な存在であることを我々に思い出させる。<他者>は主体について全てを知り、完璧に説明を与えることのできるような者なのではない。<他者>は主体について誤認し、取り違え、無視さえするものなのだが、まさにその可能性に、つまり今度は<他者>のほうの欠陥のうちに、主体は自らの「存在欠如」を重ね合わせるよう試みることができるようになる(「主体は、自分の存在欠如を、〈他者〉において欠けている場所に住まわせていた」、八六頁)。この欠如の重ね合わせを示すのが、欲望の機能である。とはいえそれは、その対象を特定された欲望ではなく、むしろ、不在のものをほのめかし、謎を提示する機能としての欲望である。まさに「外がある」ということを示すことによって、主体と〈他者〉の窒息的な関係を切り開き、両者の間に対話的=弁証法的関係を構築するものである。「分離」とは、そうした欲望の機能によって可能となる、主体‐〈他者〉関係の再構成のプロセスであるとまとめられよう。そこでは主体は、対象の形のもとに存在欠如の埋め草を手に入れ、この媒介を通じて〈他者〉の欲望を自らに関連付けるようになる。

ところが、こうして構成された関係は、最初の欠如に対し蓋を設けたにすぎず、主体と対象をさし向かいあわせる「幻想」を固定するにすぎない。だとすれば、ここで疎外は二重化されているだけだとすら言えるだろう。精神分析の実践はこの点についての介入となる。すなわちここで「幻想の横断」という新たな過程が開始されることとなるのである。「分析において何が起こっているのか」という問いに根本から関わるこの過程について、フィンクはいくつか取り掛かりの点を示唆してはいるものの、その経過全体を明瞭に論じきることには必ずしも成功してはいないように思われる。ただしその中心となる着想を彼がどのように捉えているかは明白である。「トラウマ的原因を主体化する」ことだ(九七頁)。つまり最初の疎外を通じて「外の外」へと逃れさってしまったものを、今度こそ、主体の中心において引き受けなおすことである。フィンクにおいては、精神分析とは、このようにして二重化された疎外を克服するプロセスである、と理解できるだろう。

外から外の外へ、そうして再び内へ。こうしたプロットに即して理解されるラカン的主体の特異性は、フィンクがあるところで言及するような「フロイト的主体」との差異を踏まえることで、よりいっそう理解しやすくなるだろう。フロイトが無意識を発見し、その自律性を発見したとしても、もしそれを、例えばジキル博士にとってのハイド氏のような、自分とは別のところで考える何かの実体のように考えてしまうとするならば、それは単に、ひとつの「外」を発見し、それを外在化という意味で超越化してしまっているに過ぎない(実際は、無意識をハイド氏のように考えたのはフロイトと同時代の医者や心理学者たち、例えばジャネのようなひとびとであって、フロイトの無意識概念はもっと複雑であると考えられるが)。これに対して、ラカン的主体とは、まさしくこの「外」たる無意識の展開そのものがひとつの限界に突き当たること、〈他者〉の欠如という穴がそこにうがたれていること、その穴こそがひとつの突破口であるということ――このような事実に引っかかっている主体である。いわばこうして、フロイト的主体の場である無意識を、(「クロスキャップ」や「メビウスの帯」のトポロジーによって可能となる)ある種の弁証法的プロセスを通じて事態の中心に持ちきたらすことにこそ、ラカン的主体の意義がある、と考えていいだろう。こうしてフィンクは、フロイトの有名な句、「それがあったところへ、私が生成することとなるWo Es war, soll Ich werden」が、ラカンの思想のうちで厳密に再構築されていることを我々の前に示すのである。



エディプスと主体化

こうしたラカン的主体の描写は、本書において、しばしば二重の具体化によって明快にされている。ひとつは精神医療臨床の文脈、もうひとつは幼年期の父母子関係、いわゆるエディプス関係の参照である。このような具体化は、いわば「想像的なもの」の水準で、プロセスを理解する助けとなるという利点を備えており、まさしく『入門』にふさわしい親切さを示す点であることは認めねばならない。しかし、研究のさらなる展開を期するのであれば、このような描写を少しばかり批判的な角度から取り上げておくことも有用であろう。前者の問題は特に精神分析を使った精神医療実践という(想像的なばかりでなく現実的でもある)大テーマと関わるが、ここでそれを短くまとめてしまうことは難しいように思えるので、後者の問題のみ――しかしこれもなかなかのテーマだが――取り上げておくこととしたい。

フィンクは「分離」について論じる際、父母子の関係を参照している(第五章)。本書に即しつつ簡潔に確認しておこう。最初の言語との出会いを通じて〈他者〉へと服従するようになった主体は、〈他者〉の欠如を探りはじめるところで、母との原始的一体性という仮説を自らに提示する。先に述べた分離とは、まさしくこの一体性が、失われたものとしてつきつけられる契機として理解されるのだが、フィ ンクはここに、父の介入、つまり父性隠喩の働きを接続する。すなわち、母子一体に切れ目を入れ、主体に去勢を課すものとは、まさしく父に他ならないとするわけである。

さて、この分離と父性隠喩の接続は、ラカン自身がはっきりと言明しているものでない。それはむしろ、フィンク自身の研究の成果のひとつとして評価すべきものである。ラカンにおいて疎外と分離は主に64年(セミネール十一巻および同時期の講演「無意識のポジション」)に提示されているのだが、そこでは幼児の具体的状況への参照は、どちらかと言えば、間接的な示唆に留まっているように思われる。このことは、ラカンがまさにこのセミネールにおいて、分析状況を、古い愛情関係の亡霊の出現とみなすような転移概念によってではなく、むしろより純粋に論理的な基礎によって確保しようとしていたことと関連付けて考えねばならないだろう。それは結局のところ、分析で生じることを、幼年期の生き直しのように捉える想像的な精神分析理解を一度清算する必要があった、ということではなかったろうか。こうした視点からは、六〇年代のラカンの論理学への関心を、家族的イデオロギーからの脱却といった主題と結んで捉えるという課題も現れてくるだろう。例えば『アンチエディプス』におけるラカン批判の適切な評価といった問いとも絡むこのような課題について整理しなおすためにも、分析過程をエディプスのドラマツルギーに安易に結びつけることには慎重を期す必要があると思われる(無論それはラカンにおいて「父の名」などのテーマを重視する必要がないということではない。反対にその洞察をより深めねばならないということである)。

さらに、この点と微妙に関わるもうひとつの問題として、フィンクが強調する「主体」の概念そのものに足を留めることもできるだろう。分析経験とは、フィンクの言うように、最終的に、多かれ少なかれ何らかの変化を加えられた「主体」を作り出す、という点に帰着するものだろうか。もしそうなら、このときの「主体」とは、それまでの主体といかなる点で異なったものだろうか。幻想を横断した主体とは、単に父による疎外を克服しビルドゥングスロマンの完結にまで行き着いた“立派な一人前”だ、というわけなのか。あるいは最近の心理療法や各種セラピーがお勧めするような「自己実現」、より完成した自己というわけであろうか。それとも、やはりもっと別のことを考えてみなければならないのか。分析の終わりに主体の概念を保持しようとするのであれば、少なくともその新たな構成を十分に描き出す必要があろう。あるいは、僕としては、分析の終わりに関わるこの契機を、フィンクがそう呼んでしまっているようにユートピアとしてではなく、断固としてこの世界に生じるものとして話すためには、少なくとも一瞬であれ、主体という項に戻ってくることを諦めねばならないのかもしれない、とかすかに予感する。しかしこの点については話がさらに大きくなりすぎるため、ここで止めておこう。ただ、フィンクにおいて決して手放されない主体性の概念を支えている土台がどのようなものであるかということは考える価値のあることであるとだけ述べておきたい。

理解の外

最後に「ラカン」研究に関する一般的なことを述べておこう。本書にもっとも問題含みな点があるとすれば、それは、帯が宣言しているように「これでラカンがわかる」という気にさせてくれる、という点であろう。ところが、理解とは、誤解であり、開始するべきさらなる仕事の宙吊りであることを忘れてはなるまい。なぜならひとは理解したとき、さらに投げかけるべき問いや、聞きとるべきささいなことを、目の前に開けた視野から一瞬であるとはいえ抹消しているのだから。このことは、フィンク自身よくわかっており、さらに訳者たちも十分に気づいて注意を呼びかけている点である。

その意味では、本書においてもっとも真剣に読み、その細かなニュアンスに耳をそばだてるべきページは、フィンク自身が書いている「あとがき」である。そこに吐露されるのは、ラカンについて読み、また書くことの困難さに他ならない。フィンクはいわば、そこで、本書を通じて彼自身が「ラカン的主体」に与えたひとときの区切り、スカンシオンを、新たな仕事へ向けて再び開いているのである。読者もまたここから、フィンクと一緒に再出発する心構えをしなければならない。その点で、本書を「教科書」や「フォービギナーズ」という意味で「入門書」とみなすことはできない。この本は、なによりフィンクがラカンと格闘した痕跡にわれわれを引きずり込み、ラカンについて考える道へと入門させるための書物なのである。

ラカンがひとを煙に巻くような仕方で、しかし驚くほどの執着をもって語り続けた事柄について、誰かが「理解」を提示するのだとしたら、それはいつでも、「ラカン的主体=主題」をある意味で疎外していることになるだろう。しかし結局、理解し、誤解しながら進んでいくしかないことも事実である。だからこそ絶え間ない読解の「作業」、あるいは「徹底作業」が要請されねばならない。それは、誤解であるような理解の積もった果てに、「外の外」としてある「ラカン的なもの」に接近するような、ある種の「集団作業」となるのではないだろうか。この点において『入門』した者たちはいくばくかの責任を引き受けなければならない。少なくとも、「訳者解説」で強調されているような、フィンクの読解の「真摯さ」に倣うということが、彼らに課される第一の要請となるだろう。



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