2012年3月30日金曜日

同時代的考察のステップ

何か新しい時代が始まりそうだというときには、古い時代が消えていきそうな気配もまた漂う。1979年に生まれ、世紀末に十代を過ごした私は、おそらくこの二つの流れのどちらにも属しながら、今、何かしら引き裂かれるような気持ちを抱いている。きっぱりと進歩的であることにも、はっきりと守旧的であることにも戸惑いを覚えながら、前進と後退を、冒険と懐古を、おぼつかない足取りで繰り返しているようだ。確かに居心地よいわけでないにせよ、ただ、それを単なる優柔不断と考えているわけでもない。この揺らぎそのものを、ひとつの位置として見定めたい。それゆえ、望むらくは、この足取りがひとつのリズムになり、そうしてひとつの固有のステップが自分のうちで発明されることである。

ところで結局のところ人は、十分に進歩的であることも、十分に守旧的であることもないのかもしれない。いったいどのようにして過去を全く清算することができるというのか。いったいどのようにして時間の流れとともに前方へ足を踏み出さずにいられるというのか。永遠が可能なのでなければ。永遠を実現していない私たちには、ただ、懐かしさに捉えられながら未来を夢想するそれぞれの足取りがある、と言うべきなのかもしれない。無論、それを自分に固有のものとして引き受け直すことは、容易ではないだろうけれど。

私たちは、自らが刻むこのステップに関して、完全に孤独である。おそらく、本来的にそうなのだろうし、さらには、むしろそうでなくてはならない。というのも、もしそうしたステップが集まってひとつの運動となっていくのだとしても、そのときに重要なのは、足並みをそろえることではないからだ。自らの速さ、力強さ、柔軟さ、奔放さを抑えて、理想や平均に適応することではないからだ。むしろ、それぞれに異なるテンポ、緩急、休止、反応の出会うところで、新たな踊りの様式が創造されることのほうが、私たちにより多くの希望を見せてくれるのではないだろうか。だからまず、私たちは孤独から始める必要があるだろう。孤独なもの同士の出会いによってこそ、孤独からの回復の術が見出されると信じる限りで。

アクチュアリティあるいは同時代的なものについて考えることは、そうしたダンスの実験に、自らの孤独を結晶化しつつ持ち込もうとすることである。ひとつの時代精神と呼ばれるものの内部で、まったく独特に風変わりに踊ることができたなら!

0 件のコメント:

コメントを投稿